📚 善と悪の生物学(下) 何がヒトを動かしているのか
20250407
第11章 <我々>対<彼ら>
脳は驚くほどのスピードで<我々>と<彼ら>を二分する。
異人種を50ミリ秒見ただけで扁桃体は活性化したり。でそれは、無意識に起こる。
オキシトシンは、<我々>に対する信頼、寛容さ、協力を促すが、<彼ら>には攻撃したり犠牲にしたりする。
好き・嫌いを増幅するホルモンはないが、我々・彼らの二分を増幅させるホルモンは存在する。
二分する基準は、どんな些細なものでも関係ない。が、彼らについての評価を下げるわけではなく、我々についての評価を高める形のバイアスが活性化する。
形質を共有する人にプラスの関係を感じる。
<我々>と<彼ら>の強さを表す要点は以下の4つ
脳が集団の差を処理するスピードの速さと処理に必要な感覚刺激が小さい
そのような過程が無意識で自動性
他の霊長類やごく幼い人にも見られる
任意の差でグループ分けしても、そのあとその標識が力を得る傾向がある
<我々>がうまくやることではなく、<我々>が<彼ら>を打ち負かすことを重要視する。
<彼ら>に対しては、
脅迫的で怒っていて信頼できないと見なしたり、
島皮質に訴えてくるようなむかつき(嫌悪感を感じるような)を覚えたり、
同質で交換可能(自分達は個々人で交換不可能)と見なしたりする。
<我々>と<彼ら>においての確信は、感情的でかつそれは無意識だということ。ホルモンによって調整されてもいて、<彼ら>に対する感情は、本人に手がかりのない目に見えない力によって決まる可能性がある。
そしてその認知は、確証バイアスにより後追いで正当化される。
ここまで見てきたのは個人のイメージ。それに対し、集団間の相互作用は個々人の相互作用より、もっと競争的で攻撃的になりがち。
かつ、集団内と集団間の攻撃レベルは逆相関。重要なのは、それは因果関係か?ということ。
集団間の攻撃レベルを上げるには、集団内の攻撃レベルを下げ、平和でないといけないのか。
集団間の攻撃レベルが高いと、集団内の協力関係は強まるのか?
人は複数の<我々>/<彼ら>に属している。どの集団への帰属意識が高いかは、たやすく入れ替わる。
この二分法のうち最も強力なのは、人種なのであろうか。
いろんな文化で人種間の二分法が行われているが、一番強力とは言えない。
性別がもっと強いことが多い。分類としての年齢も人種の分類を上回ることがある。職業でさえも。
私たちの頭の中には複数の二分があり、変わらなく思えていたとしても、状況によっては一瞬にしてその二分の重要性えが消えうる。
人は<彼ら>を2本の軸で分類しがち。親近度:高↔︎低と、能力:高↔︎低。
親近度と能力が高高なら誇り、低高なら妬み、高低ならあわれみ、低低なら嫌悪。
で、これらの分類が変化するとき、変化に応じて人は様々な反応を起こす。
特に、低高→低低は興味深く、ほくそ笑み、迫害の特徴も説明できる。妬ましい低高の相手を低低に陥れ、侮辱を与える。
人間の残虐性を明らかにする。
<彼ら>が<我々>を否定的なステレオタイプで見ているとき、それをしばしば受け入れ、<彼ら>を肯定的なものとみなす。
黒人の子どもが白人の子どもの人形のほうが可愛いと見る。
扁桃体の反応を制御するのは前頭葉で、白人の被験者は黒人のときに前頭葉に認知的負荷がかかる。以下のいずれかによる可能性が。
偏見をもっていて隠そうとしている
偏見を持っていて、それを悪いことと思っている
偏見を感じず、それを伝えようと努力する
その他もろもろ。
どんな状況で<我々>と<彼ら>の二分化は弱まったり強まったりするのか。
サブリミナルに否定的ステレオタイプを示唆すると強まる。
<我々>と<彼ら>を一緒にすると、敵意が消え、二分化が弱まる可能性が。
同じ数どうし、
平等な扱いをうけ、
長期間にわたり、
中立で好意的な地域で行われ、
何か目標に向かってみんなが協力して取り組むとき。
階層構造の格差を大きくすると、二分化は強まる。
最上層が底辺層を新感度が高く能力が低いと感じていると、安定する。
二分化は弱まる。
第12章 階層構造、服従、抵抗
<我々>と<彼ら>の二分が、社会経済的地位の階層構造と重なる部分がある。
認知と情動の基盤がからみあっている。
しかし、階層構造は、<我々><彼ら>とは違う方向に人間特有のやり方で向かうことが確認できる。
階層構造とは、限られた資源を利用する機会における格差を公認する階級制のこと。
メリットは、個体主義的なこと。上位個体にとってはいいとこを常に最初に獲得できる。一方で従属側にもメリットがあり、ただいいことを一位個体に渡すのは、争ってダメージをくらった上で渡すよりまし。
トップまでよじ登るには腕力、よじ登ってからは社会的スキルが重要。
社会集団が大きいほど、体に対する脳の大きさの割合は増し、大脳新皮質も発達している。相関関係がある。
これは相互に影響を与えていると考えられている。脳が行動を形成し、行動が脳を形成し、その脳が行動を形成し、、、というように。
人は地位の違いを見分けることに関心があり、熟練もしている。
前頭前野が活性化したり、階層の不安定さは扁桃体の活性化を起こす。
特定の生理的特性は、順位が決まった後に続く。
生理的特性は順位決定の原因ではないということ。
階層構造の上にいるからといって、ストレスが少ないわけではない。というか、むしろ多い。一位であれば性的関係を数多く得られるが、その分戦いなどへの対処を多く行わなければいけないから。
従属する方がストレスが高いわけではないということ。
従属する方のストレス値が高いのは、上位にいじめられたり吐口がなかったり親類がいなかったりする場合。
人間も中間管理職がストレス値が高い傾向にあるのが、似たようなところ。仕事の要求は大きく、裁量は小さい。
階層構造から受ける影響は、個体の性格によるところも。
一位じゃないことを気にする二位もいれば、十位じゃないことを持って安堵する九位個体もいる。
性格は順位と健康の関係に影響する。
人間においても、階層構造がどのようなものか?がストレスに大きく影響する。
影響のある変数としては、階級が下の人が何人いるか、自由度がどれくらいあるか、であった。
また、人間において、自分が貧しいと感じるほど、病気の発生率と死亡率が悪くなる。
霊長類の中でも人間は特殊。
階層構造は複数あるし、指導者を自分たちで選ぶし、かつ愚かな暗黙の基準で選ぶし。そして話は政治に。
政治とは、共通の善に向かっているが、どうすればうまく実現できるかについての意見は異なるもの同士の闘争、とする。
政治的思考の基盤は、内的に一貫している傾向がある。
保守派は直感で始めて直感のまま、リベラル派は直感から理性に移る。
感情的な判断は、リベラル派は不協和田さを感じるから。
認知的負荷が高いと、リベラル派も理性に移れないようになる。
保守派は予測できることが安心できる安定思考。多様性も嫌。み
政治的イデオロギーは知性や情動のスタイルの表れにすぎず、4歳児が新しいおもちゃを積極的に受け入れるか否かで成人した後の保守派・リベラル派がわかる。
臭いゴミのある部屋にいると、社会的に保守的になる。
保守派はリベラル派より嫌悪の閾値が低い傾向がある。
島皮質の根にある問題が、保守派・リベラル派のちがいを説明するのに役立つ。
では、遺伝はどのような影響が?
遺伝可能性は50%。と言われてるが、果たして正しいかはわからない。
動物はそのほうがいいからという価値判断なしに、ほかのみんながしているからという理由でその行動を真似る。同調する。
私たちの脳には、ミリ秒単位で同調することでうまくいつというバイアスがかかっている。
ほかのみんなとちがうことは、自分はまちがっているという認識も。
扁桃体と島皮質が活性化。
強化学習中に動員される回路で、予想との不一致があれば行動を修正することを学ぶ。
同調の圧が強いと、同調するだけでなく記憶を修正してくる。視覚機能までその同調は活性化させ、見てないものを見たと修正することも。
スタンフォード監獄実験は追試も行われたが、追認できなかった。が、監獄実験のシンバルドーは追試のBBC(テレビ番組として行われた)監獄実験を批判。互いに批判し合っているが、共通点も。
同調と服従への圧力があるとき、予想よりはるかに高い確率で屈服して恐ろしいことをする。
それでも抵抗する人はつねにいる。つねにいるのである。
死に窮する場合があったとしても。
同調や服従による残酷さは、少しずつ増す。
残虐行為が道徳性よりも合理性の問題に見えるようにする。
責任が分散されることで、残酷さを一手に引き受けなくてすむ。
だから集団において匿名性が増し、画一的な容姿に変わることがよくある。相手から自分を認識できないようにしているわけではなく、自己を没集団させることができるので、道徳からの離脱が促されうる。
心理的な距離が遠い方が残酷なことをしやすい。
人はストレスがある時の方が同調したり服従したりしがち。<我々>と<彼ら>の二分の時と同じ。
同調や服従への抵抗となるのが、自分が一人ではない、と思える時。
過去に抵抗した人がいる、と知ることも、助けになる。で、それは自分と同じフツーの人という事実を認識することが、大きな力の源になりうる。
第13章 道徳性と、正しい行動を理解し実行すること
動物は<我々>と<彼ら>で二分し、前者を優遇するが、イデオロギーで正当化するのは人間だけ。暗黙のうちに階層化するが、格差を神の計画と見なすのは人間だけ。
道徳に関する3つの問い。
道徳性は文化的制度なのか、霊長類からの遺伝なのか。
人間の道徳性の一貫性がすばらしいのか、変動性がすばらしいのか。
道徳的意思決定に関して、直感に頼る方がいいのはどういうときで、推論に頼る方がいいのはどういうときか。
道徳的推論に認知プロセスをもちこむが、これは影響されやすく不安定で偏りがある。
すべきことをしないよりしてはいけないことをするほうに厳しいし、悪意に敏感やし、悪い出来事の因果関係を熱心に探すし。
人は往々にして、そう判断する理由がわからないのに、それが正しいと強く思う。
直感が先行し、推論によって追認する。
choiyaki.iconファスト&スロー、あるいはブラック・スワンですね。
choiyaki.iconで、これが脳科学的にもそうというのが述べられている。どこそこの部位が活性化する、と。心理学的ではなく、脳科学的に。
道徳的な評価を下すスピードは他と比べて速い。
道徳的決定は、感情or直感的な状況が違えば全く異なるものになり、それゆえまったく異なる追認を生み出す可能性がある。
生後6ヶ月の赤ん坊も霊長類も、道徳的な判断を示す。
すべきことをしない・すべきでないことをするのに注意を向ける、正義感がある。
不公平なことに腹を立てる。
自分に損失がなければ、公平になる霊長類も不公平になる霊長類もいる。マーモセットは前者、チンパンジーは後者。
目の前にいれば、<我々>として扱われる。距離が遠く、創造が必要であれば、そうならない。
複数の<我々>集団と階層組織に所属する。それは、状況によって大きく変化しうる。状況依存的。
自分と他人でも違う。自分には道徳的な非難をしない傾向がある。
単純に、自分勝手であるから。
自分は<我々>で、他人は<彼ら>とカテゴリするから。
文化により、道徳的行動の強要方法も異なる。恥の集団主義と罪の個人主義。
恥はおもに東アジア社会、罪はおもに西ヨーロッパと北アメリカ。
道徳哲学、三つのアプローチ。そのうち義務論と帰結主義について。
良心に恥じないようにの徳倫理学、好ましいか否かの義務論、その行動が何をもたらすか考える帰結主義。
義務論VS帰結主義に目を向けると、トロッコ問題では被験者の30%が義務論者で5人の命を犠牲にしてレバーも引かないし人も押さない。30%が帰結主義でレバーを引くし人も押す。残りが状況次第で行動を変える人たちになる。
功利主義に流れるならその瞬間は帰結主義者であるということ。が、それが判断するための優れたガイドではないことは、いくつかの例を出すことですぐにわかる。
トロッコの前で自分の手で人を押したり、ナチスから匿っている人を助けるために泣く赤ん坊を窒息させたり、臓器を摘出して5人の命を救うために1人の健康な人を殺したり。
これらは功利主義を、全体の利点になることを考えると、いずれも1人を犠牲にする、という判断になるが、そうやすやすとはならない。
功利主義においては、直接的な帰結・長期的な帰結・超長期的な帰結のすべてを何度か繰り返して考察するかぎりにおいて説得力のある主張が可能になる。
短期的な妥協と長期的に許容できるかがコンフリクトを起こすと、功利主義では壁にぶつかる。
つまり、短期的なことのみ考える功利主義者は、判断には迷わない。とっさの判断の時とか。
道徳的直感を働かせている時。
壁にぶつかるのは、道徳的推論を働かせているとき。
じゃあ、道徳的直感と道徳的推論は二項対立的?そうではない。道徳的推論による繰り返し学習した結果得られるものが、道徳的直感。
道徳的直感は根源的なものでも反射的でも原始的でもなく、学習の最終成果。それはもちろん文化に影響を受けるであろうし、どういった環境で育ってきたかにも影響を受ける。何度も経験して、自然に頭に浮かぶようになった認知的結論であるから。
<我>VS<我々>の場合、つまり自分の利益か自分を含む集団の利益かを考える場合、道徳的直感が共有されているので、直感を重視することで向社会性が促される。
利己心に抵抗しやすい。
熟慮すると、協力した方がいい。が、今回はそうでない理由が…と考えるため。直感の方が協力的な決定になる。
おそらくこれが、<我々>VS<彼ら>の場合には、直感によって身勝手さの方向に向かうと予測される。
よって、直感はできるだけ遠ざけて、彼らについてよく考える、ということをしないと、勝手な振る舞いをうむ。
人間のだます能力は霊長類に比べ測り知れない。かつ、だますことを悪いと思ったり、自分のうそを実際に信じたりするのも人間だけ。
うそをつくことにはたいてい、罪悪感を軽減する正当化がセット。
私たちはうそをつくかどうか、騙したいと言う衝動に対抗して難しいことをするのか。
ずるをしなかった人は、騙したいという衝動すらなく、ただただずるをしなかった。ズルの誘惑と戦い、勝利したわけではなく。ただズルという選択肢を持っていなかった。
そういう人は、正しいことをするほうが容易。
第14章 人の痛みを感じ、理解し、和らげる
人が痛がっていたり悲しんでいたりしたときに経験しやすい、「共感」という言葉に近い苦痛の状態について、
共感から実際に何か有益なことをするようになるのはどういうときか?
私たちが実際に行動するとき、それは誰のためなのか?
語句の違い
同情:他者の痛みを理解せずに気の毒に感じる
共感:人の痛みを理解し、その人の立場に立つ
思いやり:人の苦悩に共鳴することが実際に相手を助けることにつながる状態
様々な動物において、「あなたの痛みは私の痛み」となっている実験事例が多数。かつこれは社会的な現象。<我々>において発動する。
子どもの思いやりの目的は、苦しんでいる人の苦しみをなくすことか、自分自身のそれを終わらせることなのか。
共感状態きて、感情と認知はどういうときに一方が他方より優位に立つのか。また、お互いがどんな相互作用をするのか。
感情の側面として。
全ての神経生物学の道は前帯状皮質(ACC)を通り、ここが共感とつながっている。
心臓がどきどきや、口の渇き、筋肉の痛みなど内受容情報がACCに引っかかる。
予想と違う意味での矛盾、しかも悪い方に違うときに、ACCは活性化する。
ACCは、社会的および精神的な痛みの抽象概念にも、身体的痛みと同じくらい関心を持つ。
また、他人の苦痛を和らげるために何かをすることの中心でもある。他人の不運をモニターし、それと同じようにならないようにする、恐怖と条件回避を学ぶのにACCが不可欠。
ACCに加え、島皮質や扁桃体が成長するにつれて絡むようになる。共感を状況と因果にはめ込み、痛みの原因がなんであれ何かのせいにしようと、責任転嫁しようとし、憤る。
認知の側面として。
今起きていることを解明しようとするときに心の理論のネットワークが前に出てくる。認知が出てくる。
目に見えない痛み、精神的な痛みに苦しむ人を観察するときや、痛みが抽象的に示されるときに関与する。
意識的に論理を使わないといけないのは、<彼ら>に対して共感状態に達するとき。認知力は大きな仕事をしないといけない。
一方で、<我々>に対しては、無意識に道徳的に振る舞うことができる。
心の論理により、共感を覚えたり視点を取得したりするには、強い前頭葉の活性化が必要。
認知的に負荷がかかると、共感が仕事をするのが困難になる。
感情と認知は両方とも必要。相手と自分の相違点が類似点を上回る場合、認知側の仕事が大きくなる。
類似点が勝つ場合は、感情の共感が発動しやすい。相違点が勝つ場合は、共感には認知の負荷が伴う。
ミラーニューロンがあるから、共感が生まれるのか。
否、と著者は結論づけている。
ミラーニューロンが活性化するから共感が生まれる、とは言い切ることが今のところはできない。共感が生まれているときに、ミラーニューロンはどうやら活性化しているが。
ミラーニューロンは人気で、かなり注目されたものの、共感を生むのに必要、というわけではなさそう。
正しいことをする人は、道徳的推論が習慣的な規範として道徳的直感になっていることによる。
では、同情と共感では、どちらが同様の状況に正しいことをしうるのか?
では、感情と認知では、どちらが同様の状況に正しいことをしうるのか?
共感状態が思いやりのある行為につながる保証は何もない。というか、共感はむしろ相手より自分の身を考えることに。
ひどく苦痛を感じると、自分のニーズに気を配るように。
思いやりのある行動を生むのは、一歩離れて諦観できているとき。
強い共感は、認知的負荷の少ない心理的に楽な行動へと走らせる。
そうなりやすいのは、遠くの苦痛ではなく近くの苦痛、集団に関わる苦痛よりも関心を持っている個人の苦痛。
痛みに対し共感が最も大きくなるのはどんな時か、ではなく、誰が助けを必要としているか。
善行は気持ちいい。なぜか。そこには何かしらの自己利益の要素があるから。
行為に含まれる共感には利己的要素が含まれる。
心地いい満足、罪悪感の軽減、他人との連帯感の強まり、自分は善良と思えること。
自分自身を善良と思いたい動機に利己心の要素はないのか?
困っている人が助けられる場合であっても、自分がどういう状況で助ける行動をとったかによってドーパミンの活性の仕方がどうやら違う。つまり、なんらかの利己心が紛れ込んでいるということになる。
思いがけずお金を受け取った時、
自ら寄付する
税金として取られる
上記の2つで、ドーパミンの活性の仕方が違う。
善行をすることに満足感を得ることなく、困っている人が助かったと知るだけで喜びを得ることはまれ。
自己の満足が、利己心が含まれる。
結論としては、
距離が離れていると、共感は発動しにくい。
強い共感が、思いやりのある行動につながるとは限らない。から、ときには距離をおくことが必要。
認知的に負荷のかかること、よく考えると、思いやりのある行動をしないでいい都合のいい理由を見つけてしまう。
以上より、思いやりのある行動には、道徳的直感がカギを握る。様々な経験から暗黙のうちに自動的にするようになったことが。
第15章 象徴のための殺人
漫画や旗や衣類や歌をめぐって、人は殺したり殺されたりすることをいとわないときがある。
特定の宗教への風刺漫画に対する講義行動による殺人。
歩兵戦闘において、軍旗を持つ兵士は標的にされる。
ライバルギャングの色の赤い靴を履いていたなんの関係もない人が、ギャングに殺された。
囚人服を着せられることに講義し、ハンガーストライキを起こしが故に餓死した。
ある歌を歌うことへの暴力的な反応として、殺人が起こった。
人間は象徴体系に熟達している。
言語が最もはっきりその熟達を示している。
隠喩がその極値。直接言っていないのにも関わらず、象徴によって伝えている。
ただ、最近進化したものであるので、脳は即興でその場で「これは比喩表現だ」と判断をする。その結果、最善と最悪の行動に影響を及ぼすことに。
痛みの意味を評価するACCは、拒絶という社会的痛みと文字通りの痛みを同じと認識する。
脳は、精神的痛みと文字通りの痛みを混同する。
共感と裏返しの感情を持つ相手、つまり憎い相手に対しては、反応は逆に。憎い相手が成功するのは苦痛。ACCが活性化する。反対に憎い相手が失敗するといドーパミンが放出される。
人間は、考えるだけで反応する。傷んだ食べ物について考えるだけで、実際に食べたときに島皮質が反応するように反応する。
生理的嫌悪と道徳的嫌悪はつながっており、双方向。嫌悪以外はそうではないが、嫌悪は双方向。
「むかつきは民族や外集団の標識の役割を果たす」。つまり、むかつきを感じるということはその対象を<彼ら>と認識しているということ。
逆の認知、生理的清潔さは道徳的清潔さと双方向に影響を与える。
手を洗うと、生理的嫌悪が和らぐ。
汚い悪党であることと手洗いを必要としていることの区別が、脳には難しい。しかもそれは、身体とも結びついている。
嘘を行った場合はマウスウォッシュを必要と感じ、嘘を書いた人はハンドソープを必要とした。
道徳的衛生状態と身体的衛生状態の近藤は、行動するかにも影響を与える。
私たちが向社会的になる瞬間、その多くは償いの行為。なので、手を洗うことができた方が、つまり償うべきと思っていることを身体的に清潔にすることができれば償いは無効化されたことになり、向社会性は低下するので他者を助けなくなる。
文字通りの感覚と隠喩的な感覚を混同する状況も。
choiyaki.icon象徴体系に熟達しているが故、やろね。
パズルの手触りがザラザラなら人間関係にもそれを敷衍したり、椅子が硬ければ柔軟性に欠けたり、空腹なら判事の囚人に対する釈放基準が厳しかったり、時間が遠いと抽象的な認知を使ったり。
感覚と隠喩的な感覚を混同してしまうのは、進化はつぎはぎで、ACCや島皮質の役割を広げることで、隠喩的な感覚を本来の感覚を司る部位に担当させているから。
ルワンダの虐殺は、島皮質に隠喩を、非人間化を吹聴し、文字通りに人間でない<彼ら>と思わせたことがすごく多くの人の命が失われる要因となった。
隠喩と文字通りを混同するのは、平和の調停に利用できる部分もある。それが、「聖なる価値」。
聖なる価値は、物質的・道具的な重要性に不釣り合いなほど強く擁護される。文化的に大切にしているものがあれば、それを失うことに対してはどれだけのお金を積まれたとしても決して応じない。
平和を確立するには、<彼ら>の聖なる価値を認めて尊重する必要がある。それが難しいのは、彼らの人間性や誇りや過去とのつながりを理解する能力が彼らにもあると認めることになるから。
マンデラは、相手の文化を知り、母語で話せるようになることで相手の聖なる価値を行動を伴って認め、争いを防いだ。
「文字通り」と「隠喩」を混同することと、聖なる価値は命懸けで守られることは、最善の行動をもたらし得る。
第16章 生物学、刑事司法制度、そして(もちろん)自由意志
現行の司法制度を廃止して、基盤を全く異なるものに置き換える必要があることを納得してもらう試みが、この章の前半の話。
私たちの行動を理解する生物学の位置付けは3つある。
1. 私たちの行動には完璧な自由意志がある。
2. まったくない。
3. その中間。
本書ではこの後1.の立場を顧みない。
「その中間」という立場の、弱められた自由意志。
人は自分の行動に責任を持つ必要があるが、精神異常や脳損傷など、それを制御できない場合にはその責任の軽減自由になり得る。
犯罪を起こした際の刑が、その考えにより軽くなる。
小人のメタファー。
脳からの入力と情報すべてに目を配っており、ホルモン濃度をチェックし、すべて検討熟考の上やることを決定する存在。
ありがちな割り当ては、素質や衝動を生物学に、努力や衝動への抵抗を自由意志に、というもの。
その二つのせめぎ合いにより、行動が決定するという考え方。
仮に小人がバカげていると思えるほど生物学的見識があったとしても、行動については多くを予測することはできない。
因果を明らかにはできない。
統計的な傾向はわかるものの、個人の予測には至らない。
骨を損傷すれば歩くのに苦労するのは100%であろうことは予測できる。が、行動については生物学的な知見による予測は難しい。
これが生物学の直線的な道筋とすると、この道筋はゲノムや育てられた文化や昼に食べたものでは変わらない。つまり行動の予測には使えない。が、最善と最悪の瞬間を決定する社会的行動には影響し得る。
影響し得るが、まだわずかなことしかわかっていないため、予測は難しい。異なるタイプの原因がわかっていかないといけないが、科学はまだそこまで知らないから。
自由意志は、私がまだ理解できない内面の力、と言える。
生物学的に明らかになってきたのはここ最近の話。わかっていないことは多く、小人はまだまだ至る所に想定できそう。
自由意志は過去よりも狭い範囲のものというのを認める必要があるし、今後さらにわかってくることがあれば、どんどんそのスペースは狭くなるであろう。
自由意志はさらに弱まる。
過去、魔女狩りなるものがあり、現代ではそれをとんでもなくひどい法律であったと認識しているが、未来の人が現代の法制度やらを見ると、もしかしたら同じようにひどいと感じるかも。それでも法制度は考古学のように将来の有能な科学者に任せる、ということができない喫緊の問題についてのことなので、やっていかないと仕方ない。
処罰に感じる喜びを克服することが、ほぼ不可能だが実現の可能性が残されていること。
処罰が抑止力にはなる。ただ、そこに快楽が伴っているのが、美徳という考えが備わっているのが、ドーパミンの放出を伴ってしまっているのがよくない。
処罰が快をもたらさず、ただただ抑止力になることが好ましい。処罰は当然、というのを切り離す。なくす。
最悪の行動に対して自由意志を否定するなら、最善の行動に関しても同じことが当てはまる。
最悪の行動に対する自由意志の領分がごくごく少ないのであれば、それは最善に対しても当てはまる。最善の行動も、遺伝子が関係し、ホルモンが影響し、過去の文化の名残があるかもしれないのだから。
第17章 戦争と平和
a. 状況は改善していて、人間の最悪の行動の多くは後退し、最善の行動が優勢になっている。
いまの世界はそれほど昔でない過去と驚くほど違っており、治安がよくなっているし、強制行為や暴力は禁止されていっているし、法律も非人道的なものが禁止されていっている。
理性的に考えて、殺し合うよリモ協力した方が有益である、と考えて。
ただ、世界は驚くほどに残虐であった。
「あった。」ではなく、人々はずっと残虐。ピンカーの主張。
短い間に多くの死者数を出すようになった。つまり、暴力行為をする人が減っていて社会は暴力行為を阻止しようとしているという点で改善している、と言える。が、数少ない暴力的な人の影響が及ぶ範囲が格段に広くなっている。
状況は改善されているものの、状況が良好というわけではない。
b. 最悪の行動の後退と最善の行動の優勢さをさらに改善する方法の検討。
古くからある暴力抑止戦略は、移動すること、交易すること、文化の伝播。
宗教は、最善と最悪の行動の両方にとって強力な触媒。世界規模の宗教には共通点が。
私的で自己完結的な信仰心の側面と、コミュニティにまつわる側面がある。
最善と最悪の行動を助長することに関しては、両者はまったく異なる領域。
個人およびコミュニティの儀式的行動が伴い、それによって不安なときに安心できるが、不安そのものが宗教から作り出されている。
<我々>と<彼ら>を区別する。
相手が内集団の成員なら無宗教の人よりも親切に。
ただ、どこまでが内集団かの規定は、宗教は気まぐれ。
文化の規模が大きくなると裁く神を作り出し、それにより向社会性が強まる。裁く神の存在により、それを思い出させるものは向社会性を高める。
主要な宗教はどれも歴史上罪のない人を死なせてきた。宗教は、(<彼ら>に対する)暴力を極めて強く触媒する。
<我々>意識を強めるのには、宗教を求める必要はない。<我々>の範囲は気まぐれに変わるので。
集団間の接触は、緊張を緩和もするし、高めもする。
人数・扱いが等しく、煽動的宣伝のない中立の立場で、危険行為の監視体制があるなかであれば、互いの緊張を緩和する働きが。
逆であれば緊張は高まり、敵意は強まる。
最も交流がうまくのは、共通の目標があるとき。
新しい共同の<我々>になるため。
が、効果はたいてい一時的で、<彼ら>のうちの自分が接した彼は、大丈夫な人だったと<彼ら>全体には<我々>意識が及ばない。
個人間の接触は、<彼ら>ではなく相手を1人の人であるという認識を得ることで、扁桃体の反応はなくなる可能性が。
choiyaki.icon【movie】グリーンブックを思い出した。黒人を差別的に見ていた主人公は、黒人の音楽家の運転手をすることで差別意識をなくしていく。
退路を断って<我々>を構築する方法も。
恐ろしい現代の暴力の世界でよく使われる。家族の殺害を強制することによって。
疑似種化ー<彼ら>を虫、ネズミ、細菌、糞便などとみなすことーによって煽動する方法は見破りやすく、用心しやすい。が、共感に訴えかけてくると用心しにくい。
多くの人が嫌悪するような事例をでっち上げ、共感する直感を利用して煽動する場合もある。
協力について考えると、互いに協力し続けるのであればお互い最も利益を得られるが、最初に裏切った方が裏ぎらなかったときよりも大きな利益を得る。この状況下で合理的に考えると、協力から始めると一歩遅れてしまう。そんな中なぜ協力関係は生まれるのか。
血縁関係であったり、血縁を感じさせるものがあれば進化論的に協力が起こるであろう。それがない時は?
ゲームが有限回であるとわかっていれば非協力が合理的。が、有限回化わからなければ協力が利益の蓄積に。
複数のゲームがあり、片方のゲームの方が協力の確立がしやすいとき。
行動に対する評判が知れ渡る状況下にあるとき。
協力を促す罰は、多くの種に見られる。
あらゆる文化が代償を払ってでも違反者を罰する意欲を示す。森林の伐採に対して罰を課している村ほど、森林のパトロールが多い。
パトロールという代償を払っている。
代償の高い罰は、罰を与える者が被害者や、罰を与える者が第三者ともできるが、人間は後者の仕組みを作っている。
協力するものは、大勢の協力しない者を打ち負かす。それに適応するよう進化してきた。
ただ協力は、善い悪いという価値判断とは関係がない言葉。
謝罪は、謝罪を受ける側の気質によって違いが出る。
赦しは、忘れることではなく、学習を上書きすること。なので、また何かあるとはじめてよりも赦しがたくなりうる。
人は合理的な最適化マシンではない。暗黙のバイアスが関わっている場合があるが、そんなときはバイアスを排除するのではなくバイアスを明らかに示すことが必要。
戦争では、実際の歩兵戦にて銃は発砲されずに終わることの方が多い。
相手が目の前にいると殺し難く、散弾銃や手榴弾、大砲なら比較的容易。
相手との距離が影響。
とはいえ離れていても、相手を監視したりしていると殺せたとしても心に傷が残ることも多い。実際に人殺しをすることに対する抵抗がある。
c. b.の情動的な裏付けと人間の最善の行動はまったく起こりそうもない状況で起こり得る。
キイロヒヒはだいたい暴力的で虐待もする。が、雌と雄の比率が2:1で、雄がみんな比較的穏やかな場合、その群れでは低い攻撃性と高い親和性のスタイルに。
文化として根付き、他の雄が入ってきても群れの文化に溶け込む。
ヒヒでもそんな社会的可塑性を示すなら、人間もできるであろう。
単独あるいは少数でも、途方もない影響を与えることが。
チュニジアの果物売りの青年の焼身自殺が、中東のさまざまな国で政権打倒運動や政府革命を起こした。
真珠湾攻撃に参加した日本のパイロット数名は、真珠湾攻撃での追悼式典に参加し、生存者に謝罪した。
そこから生存者の一人の記念館のガイドと親しくなったり。
同じようなことが、ベトナム戦争退役軍人にも。
ソンミ村虐殺事件を止めたのは、虐殺を行っていたなと同じ数名のアメリカ人であった。
讃美歌「アメージング・グレース」を作詞したニュートンは、奴隷廃止論者になるまで、奴隷船で働き、船長になり、奴隷貿易事業に自分のお金を投資し、とする中で何度も自分の行動、その恐ろしさに気づく機会はあった。が、最終的に牧師になるまで何十年も啓示は起きなかったが、最後には奴隷解放論者に。
d. この章は「戦争と平和」と呼んで許されるのか。
第一に世界大戦中、歩兵戦の最前線で休戦がおこることがあった。
クリスマス休戦は、将校同士がクリスマスに取り決めた休戦。ただ攻撃し合わないだけでなく、交流も生まれた。
自然発生的に休戦になることも。はじめは互いのご飯の時間は休戦するように、やがて何かしら儀式的なものが伴い、たがいに交戦意思がないことを提示し合うことで。
将校に見つからず休戦するために。
軍人たちの日記を見ると、最前線にいたほうが相手に対する敵意は低かった。距離が離れた方が高かった。
実際に相手と向かい合っている方が、敵意はなくなる。何度も同じ顔を合わせることになるし、共通の敵は指示をしてくる互いの上層部である、ということに気づきもする。